早川刃物店のブランドは「早川信久」で、「早川信久」「信久」「八段早川信久」の銘が入る。
早川信久は初代店主であり、八段の段位を取った棋士でもある。棋界での名は早川隆教、本名は亀次郎という。
伝聞によるものであることをご承知いただきたいが、当時の棋界は団体が整備されておらず、棋士の生活は将棋では成り立たなかった。多くの棋士は賭将棋による収入か、「(今でいう)将棋教室」運営によって生計をたてていたらしい。
早川隆教は賭将棋を嫌い、また将棋は虚業であるという判断をくだし「刃物屋を本業とする」信念をもっていた。刃物屋を営む傍ら教室を開き、人に将棋を教えた。こうして「将棋八段の刃物屋」が誕生したというわけである。
隆教は逸話の多い人である。当時珍しかった車にはねられ、片足を傷めた。このときから座るときは肩膝を伸ばし、現在に残る写真はそのほとんどが傷めた膝を伸ばして対局している写真である。
早川家に残る信久の看板。
「将棋八段 早川隆教」とある。
人の目を気にしなかった隆教らしく、おそらく手近にあったものだろう、端材を使って作ったものと思われる看板。
京都市北区にある墓。
水鉢は将棋の盤に駒がのっている形をしている。
墓参りの折、生前の信久をご存じの方に声をかけていただいた。
このページは早川刃物店のブランド「信久」を紹介すると同時に、初代である信久について記録することも目的のひとつとしています。
「将棋八段」という高位にいながら、ネット上で探しても情報らしき情報が皆無であること、生前の信久(=隆教)を知る人が多く鬼籍に入り、信久について調査することが困難になることに気がついたことがこのページを作成することにした契機です。
信久についてご存じの方、また何らかの資料をお持ちの方は、お手数ですがお教えいただけたらありがたく思います。
2020年5月追記
今年3月、堺市の舳松(へのまつ)人権歴史館の方からメールをいただきました。
「早川隆教」の読み方は何でしょうか、と。
なんでも、舳松人権歴史館には「阪田三吉記念室」があり、そこの情報検索装置内「阪田三吉名人年譜」に
「阪田名人推薦式及び祝賀会を大阪市平野町の「堺卯楼」で開催。早川隆教、矢野逸郎両七段参加。(後略)」
と記してあるそうです。そこにふるルビの確認でした。
早川隆教は「はやかわ りゅうきょう」と読みます。
うちでは「将棋のおじいさん」と呼びますが。
ちなみに私からいうと「ひいおじいちゃん」です。会ったことはありません。